便利の代償、あるいは「ただより高いものは無い」という格言の再発見|画像生成と会話するAIの魅力と可能性
https://note.com/chat_gpt777/n/ndc8a442c766e
「財布を持たずに街へ出よう」。数年前、私たちはそんな甘美なスローガンに踊らされていました。ポケットからスマートフォンを滑り出させ、画面の二次元コードを店員にかざす。その瞬間、小気味よい電子音が響き渡り、決済は一瞬で完了する。お釣りで財布が膨らむ煩わしさもなく、小銭を数える不器用な指先を他人に晒すこともない。それはまさに、テクノロジーがもたらした「スマートな未来」そのものでした。
だが、最近になって、街のあちこちにあるお気に入りの飲食店で、不穏な看板を見かけるようになりました。そこには、かつてあれほど歓迎されていたはずの、あの赤と白のロゴマークと共に、こう冷徹に刻まれているのです――「PayPay使えません。現金のみ」。
「無料」という名の撒き餌
思い返せば、この一大キャッシュレス狂騒曲の幕開けは、大資本によるじつに気前の良い「お祭り」でした。決済手数料は無料、導入費用もゼロ、それどころか利用した顧客には容赦なくポイントが還元される。店側にしてみれば、「タダで導入できて、勝手に客が増える魔法のツール」です。飛びつかない理由はどこにもありません。小銭を数えて銀行に持っていくだけでも手数料を取られる時代、デジタルがすべてを救ってくれると誰もが信じたのです。
しかし、世の中に「永続する慈善事業」など存在しません。それは経済学の教科書を開くまでもなく、私たちが日々の生活で嫌というほど学んできた真理のはずでした。普及という名の「撒き餌」を十分にばらまき、魚たちが現金の泳ぎ方を忘れた頃、網は静かに引き上げられます。そう、手数料の有料化です。
「当初はサービスで普及に力を入れていたが、商売だから手数料の負担が馬鹿に出来ないということに、ようやく気が付いた。」
そう呟いて、溜息交じりにレジの横からQRコードの盾を片付ける店主の背中は、どこか哀愁が漂うと同時に、至極まともな正気に戻った人間のそれに見えます。売り上げの数パーセント。粗利益の薄い飲食店にとって、この数パーセントという数字は、自らの血肉を無償で他人に分け与えるに等しいものです。汗水たらして仕込みをし、重い中華鍋を振り、あるいは繊細なスープを煮詰めて得た利益の分け前を、ただ電波を右から左へ受け流しただけのプラットフォーマーに上前としてはねられ続ける。これほどの不条理があるでしょうか。
スマートの裏に潜む「やっていけない費用」
キャッシュレス決済には、確かに「小銭の計算が省ける」という偉大なメリットがありました。レジ締めは一瞬で終わり、スタッフの手間も減る。しかし、それ以上に「やっていけない費用」がかかる現実に、現場は直面してしまったのです。
通信障害が起きれば商売は完全に止まり、入金されるまでのキャッシュフローのタイムラグに胃を痛める。挙句の果てに、客がスマートフォンをカバンから探し出し、アプリを起動してパスコードを入力し、電波の機嫌を伺いながら画面を提示するのを待つ時間は、「小銭を探す時間と大して変わらないではないか」という残酷な皮肉まで浮上してきます。
デジタルという名の近代化は、劇薬だったのです。最初は痛みを和らげる特効薬のように見えましたが、使い続けるうちに体力を奪っていく。気がつけば、店側は「便利さ」を人質に取られ、プラットフォームの機嫌を伺う奴隷になり下がっていたのかもしれません。
現金の「不便という名の美徳」
かくして、時代は奇妙な一周を遂げようとしています。「現金決済に戻す」という飲食店の決断は、退化ではなく、一種の知性ある抵抗、すなわち「サピエンスの逆襲」です。
福沢諭吉や野口英世、あるいは新しく刷られた渋沢栄一が印刷された紙切れを、手から手へと直接手渡す。そこには手数料も、通信エラーも、突然の規約変更の通知もありません。ただ、確固たる価値の交換があるだけです。
私たちは今一度、立ち止まって考えるべきなのかもしれません。スマートであること、効率的であることは、それほどまでに絶対的な正義なのだろうか、と。汗の染み込んだ紙幣を握りしめ、ラーメン一杯の代金を支払う。その「不便さ」の中にこそ、商売の血通った現実と、大資本にこれ以上搾取されないための最後の砦が残されているのではないでしょうか。
今夜も私は、財布に十分な紙幣が入っていることを確認してから、お気に入りの暖簾をくぐることにします。レジ横に掲げられた「現金のみ」の文字が、どこか誇らしげに見えるのは、きっと気のせいではないはずです。
「PayPay使えません」が増殖中
飲食店が「現金決済に戻す」背景と今後の展望は エキスパートトピ(山路力也)
https://qr.paps.jp/R2ub4


