外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(30)歴史家・ 磯田道史さんと考える「過去の知恵」
https://www.j-cast.com/2021/01/02402180.html
文春新書『感染症の日本史』磯田道史
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166612796
歴史家・ 磯田道史さんと考える「過去の知恵」
http://princeyokoham.sakura.ne.jp/smf/index.php?topic=38959.0
昨年の4月、コロナウィルスの流行の予想について磯田道史氏が書いた。その予想は今を予想していた。その原点となった歴史、スペイン風邪の調査研究(恩師 速水融)などを紹介しながら、その特徴、概要を述べながら鷹山の天然痘対策を参考に、今回のコロナウィルス対策の教訓を述べている。一読の価値あり。
ちょっと気づいた点、メモ書き
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スペイン風邪、日本での犠牲
速水融氏の調査によると、スペイン風邪による死者は、「日本内地」だけで45万人、樺太で3800人、朝鮮で23万人、台湾で4万9千人に上る。
その研究は、感染による死者の規模を明らかにしただけではない。スペイン風邪が「3波」にわたって襲ってきたことを明らかにしたことが、さらに重要だ、と磯田氏は指摘する。それは以下のような経過をたどった。
第1波 1918(大正7)年5月~7月
高熱で寝込む人がいたが、死者を出すには至らなかった(春の先触れ)
第2波 1918(大正7)年10月~19年5月頃
26・6万人が死亡。18年11月は最も猛威を振るい、学校は休校、交通・通信に障害が出た。死者は19年1月に集中し、火葬場が大混雑になるほどだった(前流行)
第3波 1919(大正8)年12月~1920年5月頃
死者は18・7万人(後流行)
「前流行」では、死亡率は相対的に低かったが、多数の罹患者が出たので、死亡数は多かった。「後流行」では罹患者は少なかったが、その5%が亡くなるという高い致死率になった。
興味深いのは、当時も「経済への打撃」や「医療崩壊」の危機があり、軍隊など密な集団でクラスターが発生し、貿易港神戸で働く人や市電運転手など、人の移動や接触が多い場所で働く人に感染が広がるなど、今と同じ現象が起きていることだ。それだけではない。当時も日本ではマスクの使用が奨励されたが、「アメリカのように強制的に、マスクを着けない者は電車に乗せないほどではなかった」(速水氏)という風に、百年前にすでに、「要請と自粛の日本文化」と「ペナルティを科す西洋文化」というコントラストがあらわになっていた。
2012年に刊行された「日本歴史災害事典」(北原糸子・松浦律子・木村玲欧編、吉川弘文館)
この本に、スペイン風邪などの感染症は出てこない。
その理由はなぜだろうか。多くの自然災害は発災時の被害が最大で、その後、徐々に被害が減衰する経過をたどる。被害は見た目に歴然としており、被害が甚大かどうかは一目でわかる。つまり、いかに悲惨であるかが「出来事」として記録されやすい。
だが、感染症は目に見えない。それは波状的に繰り返し襲いかかり、最初の感染が最大の被害をもたらすとは限らない。むしろすでに感染して免疫を獲得した人が、助かったり、感染社会を下支えしたりする。つまり、「出来事」を記述する従来の歴史学の手法では、その規模や変遷を追うことが難しい。しかも純然たる自然災害と違って、感染症は、為政者や専門家の対策の是非や、それを社会のアクターや構成員がどこまで受け入れ、実行するのかという実効性が複雑に絡んでくる。自然と人為が分かちがたく絡み合う複合現象なのである。一筋縄ではいかない。
歴史や集合記憶から欠落しているということは、先人が対処した「歴史の知恵」も埋もれてしまったことにほかならない。
上杉鷹山の「知恵」に学ぶ
磯田さんは、鷹山の天然痘対策から、非常時に指導者に必要な教訓を引き出し、次の9点にまとめた。
教訓1 一番どこが困って悲惨か、洗い出しをやり、救いこぼしのない対策をとる
教訓2 情報提供が大切。具体的にマニュアル化した指示を出す
教訓3 最良の方法手段を取り寄せ、現場の支援にこそ予算をつける
教訓4 専門家の意見を尊重し採用する
教訓5 非常時には常時と違う人物・事業が必要。変化をおそれない
教訓6 情報・予測に基づき計画し、事前に行動する
教訓7 リーダーは前提をチェックし、危うい前提の計画を進めないようにする
教訓8 自分や自分に近い人間の都合を優先しない
教訓9 仁愛を本にして分別し決断する
磯田さんは、感染流行中には為政者や専門家の批判・非難はしないことを自らのポリシーにしている。感染防止の施策に、いたずらな混乱をもたらしてはいけない、という配慮からだ。