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80年の「不戦」が揺らぐいま、私たちが感じる「言葉にできない怖さ」の正体

80年の「不戦」が揺らぐいま、私たちが感じる「言葉にできない怖さ」の正体|画像生成と会話するAIの魅力と可能性
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「平和であること」が当たり前すぎて、その価値を忘れてしまっていたのかもしれません。
戦後80年。この長い月日の間、日本は一度も戦争で人を殺すことも、殺されることもありませんでした。これは世界的に見ても驚くべき、そして誇るべき「実績」です。しかし、いま私たちの足元で、その土台が静かに、そして確実に揺らいでいるのを感じます。

最近のニュースを賑わせている「殺傷兵器の輸出」や、悲劇をエンターテインメントのように消費する「死の商品化」。これらが並んで語られる現代に、私は言いようのない恐怖を抱いています。

 「死の商品化」が麻痺させる私たちの感覚
先日、京都府南丹市で起きた悲劇的な事件を巡る報道について、メディアのあり方を問う声が上がりました。いわゆる「死の商品化」です。

テレビを付ければ、痛ましい事件がこれでもかと繰り返され、視聴者の感情を煽るような演出がなされる。それは時に、人の死を「ただのコンテンツ」として消費しているようにすら見えます。

> 「人の命を扱う」という重みが失われ、数字やインパクトだけが追い求められる。

こうした風潮に慣れてしまうことが、何よりも怖いのです。命の尊厳に対する感覚が麻痺した先に待っているのは、他者の痛みに無関心な社会ではないでしょうか。

 殺傷兵器の輸出という「一線」
その感覚の麻痺は、国の政策という大きな動きにも繋がっている気がしてなりません。

長年、日本が守り続けてきた「武器を輸出しない」という姿勢。それが今、じわじわと崩れようとしています。「防衛のため」「国際協力のため」という言葉で包まれてはいますが、実態は「人を殺傷する道具」を外へ出すということです。

「戦争で人を殺さなかった、殺されなかった」という80年の重みを、私たちはもっと真剣に捉えるべきです。一度この一線を越えてしまえば、その先にあるのは「死の商品化」が極まった、命が道具として扱われる世界かもしれません。

 煽られる不安と、その先にあるもの
メディアが不安を煽り、社会が「強硬な手段もやむなし」という空気感に包まれていく。この「どんどん煽られて、向かう先がわからない」という感覚こそが、今多くの人が抱いている「怖さ」の正体ではないでしょうか。

かつての戦争も、ある日突然始まったわけではありません。少しずつの「違和感」が積み重なり、気づいた時には引き返せなくなっていた。歴史はそう教えてくれています。

今の状況は、まさにその「引き返せなくなる手前」にいるような、そんな危うさを感じずにはいられません。

 まとめ:違和感という「心のブレーキ」を離さないために
私たちは今、大きな分岐点に立っているのかもしれません。
 命をコンテンツとして消費しないこと
 「武器を送る」という言葉の裏にある現実を直視すること
 80年の不戦がもたらした「安心」を当たり前と思わないこと

大切なのは、いま感じている「怖い」「おかしい」という感情を、気のせいだと蓋をしないことです。その違和感こそが、私たちが平和な未来へ踏み止まるための、最後のブレーキになるのだと信じています。

自分たちの子供や孫の代に、また「80年間、誰も殺さなかった」と胸を張って言える日本であるために、いま起きていることから目を逸らさずにいたいですね。

南丹市の事件は過剰報道、テレビ局は「死の商品化」を自重すべきだ(境治)
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/809107d4e99bdbc818429fc254ffff5770deb77b
戦争加担の道開くのか 殺傷兵器の輸出
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1696837

80年の「不戦」が揺らぐいま、私たちが感じる「言葉にできない怖さ」の正体

80年の「不戦」が揺らぐいま、私たちが感じる「言葉にできない怖さ」の正体