絵の具の乾いた故郷(ふるさと)|画像生成と会話するAIの魅力と可能性
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今から五十余年前、私は身一つで京都から横浜へと出てきた。「出稼ぎ」という言葉がまだ生々しい響きを持っていた時代である。
当時の横浜は、お洒落な港町というよりは、高度経済成長の煤煙(ばいえん)にまみれたエネルギーの塊のような街だった。灰色の空とせわしない人波に揉まれながら、私は連休になるたびに、吸い寄せられるように京都行きの列車に飛び乗ったものだ。
当時の京都は、まさに「絵になる風景」そのものだった。
新幹線の窓から見える東寺の五重塔、鴨川のせせらぎ、夕暮れ時に格子戸の隙間から漏れる柔らかな灯り。横浜の即物的な喧騒でカサカサに乾いた私の心は、その「変わらない美しさ」に触れることで、ようやく潤いを取り戻していた。
ところが、最近のニュースを見て、私は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「2つの巨大な再開発で京都は終わる」
国際観光都市としてさらなる飛躍を目指すために、駅前の建物の高さ規制を緩和し、タワーマンションや巨大な複合施設を作るのだという。景観破壊だ、京都らしさが失われる、と記事は嘆いていた。
なるほど、京都もついに「終わる」らしい。
思えば、私たちが愛した「千年の都」は、ずいぶんとタフな都市である。応仁の乱で焼け野原になり、明治維新で天皇に逃げられ、そのたびに「京都は終わった」と言われながら生き延びてきた。しかし今回ばかりは、敵が悪すぎる。今回の敵は放火魔でも政治の都合でもない。「インバウンド」と「再開発」という名の、底なしの欲望だ。
今の京都へ帰ると、かつて私が癒やされた「静寂」はどこにもない。
市バスは外国人観光客の巨大なスーツケースで満員になり、地元の高齢者は乗車すらままならないという。風情のあった路地裏は、インスタ映えを狙う観光客の自撮り棒で埋め尽くされている。まるで街全体が、巨大なテーマパークの「日本ゾーン」に変貌してしまったかのようだ。
そしてトドメの再開発である。
京都らしさを守るために作られた厳しい高さ規制を、あっさりと「経済のため」に引っ込める。伝統を売り物にして世界中から人を集めておきながら、その伝統の器である街並みを、利便性と効率性のために破壊していく。この矛盾に満ちたスクラップ&ビルドを、「先進的な街づくり」と呼ぶのだから、現代の錬金術は大したものだ。
かつて私が憧れた横浜は、古いものを潔く捨て、新しいものに飛びつく街だった。それはそれで「そういう生き様」として清々しかった。
しかし、京都にそれを持 job(持ち込む)のは話が違う。ドレスコードが「着物」の格式高いパーティーに、突然スニーカーとダウンジャケットで現れ、「こっちの方が動きやすいですから!」と言い放つような無粋さを感じるのだ。
「なんとなく、いやだなぁ」
私が抱くこの小さな違和感は、きっと時代の進歩についていけない老兵の戯言(ざ言)なのだろう。
経済が回り、タワマンが建ち、観光客がお金を落とす。それの何が悪い、とデジタルな令和の風が吹き抜ける。
だが、連休のたびに私が帰っていたあの京都は、絵の具が乾く前の、生き生きとしたキャンバスだった。今の京都は、綺麗にラミネート加工され、値札を貼られた「お土産用の絵葉書」のよう。
次に京都へ帰るとき、私はどんな顔をすればいいのだろう。
いっそのこと、私も一人の「お上りさん」として、自撮り棒を片手に、新しく建ったビルから五重塔を見下ろしてみようか。そんな皮肉な未来を想像しながら、私は今日も、すっかり「絵になる街」へと変貌を遂げた横浜の港を見つめている。
2つの巨大な再開発で「京都」は終わる… 景観破壊で国際観光都市が失う“らしさ”(全文)
https://www.dailyshincho.jp/article/2026/05250500/?all=1

