「安全」という名の高額な麻薬――私たちが直視すべき、広報費の皮肉な末路
1. 物理的な「対策」より、心理的な「工作」に消える金
原発を運用するために投じられる莫大な予算。その内訳を覗いてみると、防潮堤を築くような「物理的な安全対策」と同じくらい、あるいはそれ以上のエネルギーが「広報という名の心理工作」に費やされてきました。
電力会社の予算、そして国から支払われる膨大な交付金や宣伝費。これらは本来、発電コストを抑えるために使われるべきものです。しかし現実には、「反対意見を封じるため」「安全だと信じ込ませるため」のコストが、電気代という形で私たちの生活を圧迫している。 私たちは「安い電気」を買っているつもりで、実は「国による安全PR」を自分たちの金で買わされているのです。
2. 「安全」を叫ぶほど、現場の「危機感」は死んでいく
ここが最も見落とされている、かつ恐ろしいポイントです。
国が巨額の予算を投じて「原発は絶対安全だ」と大々的にコマーシャルし続けることは、一種の「呪い」として機能します。
現場へのプレッシャー: 「絶対安全」と国が公言している以上、現場は「小さなミスや不具合」を報告しづらくなります。
思考停止の蔓延: 「安全だと言うのが仕事」になってしまい、本当の意味でのリスク抽出ができなくなる。
偽りの安心感: 騒げば騒ぐほど、実態を伴わない「ハリボテの安全」が完成し、肝心の危機管理能力が削ぎ落とされていきました。
つまり、「安全を叫ぶための料金」が高騰すればするほど、実際の安全性は反比例して脆弱になっていったという皮肉な構造があるのです。
3. 「不都合な真実」を隠すためのコストを、いつまで払うのか
原発が「石油より死亡者数が少ない」というデータが事実だとしても、それを伝える手法が「莫大な広報費による刷り込み」である限り、国民の疑念は晴れません。
本当に信頼される技術であれば、これほどの宣伝は不要なはずです。
今の日本に必要なのは、「絶対安全」と連呼するためのPR予算を削り、その分を「万が一の際の実質的な補償」や「誠実な情報公開」に回すことです。
まとめ:私たちが本当に支払うべき「納得の代償」
私たちが今、高い電気代を払って目にしているのは「安全なエネルギー」ではなく、「安全だと言い張るための巨大な装置」の維持費かもしれません。
広報費に依存した「安心」は、いつか必ず崩壊する。
「安全を叫ぶコスト」が、実は安全性を下げているという矛盾に気づくこと。
イメージ戦略を捨て、リスクを含めた「生の情報」を求めること。
「騒がしいほどの安全宣言」に違和感を抱くあなたの直感は、正しいものです。これからは、国や電力会社の「声の大きさ」に惑わされるのではなく、その宣伝費がどこから出て、何のために使われているのか。その裏側を凝視する賢さが、私たち消費者には求められています。
この「宣伝が逆に安全を壊している」という視点は、一般的なニュースではあまり語られない、人々のハッとする「強い気づき」になるでしょう。
原発は石油火力より99.7%死亡者数が少ない…暴騰するエネルギー価格にやるべきことは1つだ
https://mag.minkabu.jp/politics-economy/40636/?membership=1

