つみかさね

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横浜の大名 米倉家の幕末・明治 横浜市歴史博物館

横浜の大名 米倉家の幕末・明治 横浜市歴史博物館
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/?cID=5038

横浜の大名 米倉家の幕末・明治 「日記」が伝える武州金沢藩、激動の4年

会期2021年10月2日 (土) ~2021年11月23日 (火)
会場横浜市歴史博物館
開館時間9:00~16:30
休館日月曜日

米倉丹後守昌尹は横浜市で唯一の大名米倉家の中興の祖です。この米倉家というのは武田信玄の家臣団武川衆の一員で武田氏滅亡後、徳川家康の家来になった。この米倉家の石高は米倉丹後守昌尹が家督を継いだときは600石、そして亡くなった年に15,000石の大出世している。

その同時代に武川衆の一員で柳沢吉保家督を継いだときには530石、隠居する前には15万1200石の大名となる。米倉の出世と柳沢の出世が同時期に起こっている。どうも柳沢の力によって米倉家も引き上げられた感じがする。柳沢吉保引退後には柳沢経隆(六男、四男とも言われている)が養子に入って米倉忠仰(六浦藩(金沢藩)米倉家4代。と名乗る。

下に出世した人を参考に探してみると田沼意次新井白石等があるが、米倉の出世は異例のモノであることが判る。

田沼意次享保20年(1735年)に父の遺産600石を継いだ600石の旗本から5万7000石、最後は没収。

新井白石は元禄6年(1693年) 40人扶持 甲府徳川家(米200俵、40石)
宝永6年(1710年)側用人 白石の身分は500石取り(のち正徳元年に1000石に加増)

「武士一人1日標準生計費用を米5合と算定して1ヶ月に1斗5升、1年間1石8斗、俵に直して、米5俵を支給することを一人扶持という。